同じでも、違うこと。

2020年5月24日

例えば、ある目的の手段として、
あるツールを使おっかな?と思っていたとします。

その時、
「~~になるためには、○○を使わないと、××になっちゃうから使わなきゃ!」
というのと
「~~したいな、じゃあ○○を使おう!」
というのとでは

「意図」の在り方が全く違う、と思います。
「○○を使う」という行動自体は同じだけれど、
使う時の方向性が全然違っています。

ただ文章を並べて見比べてみるだけでも、随分印象が違うでしょう?
Aはすごく追いつめられた感じ、
Bはとにかくシンプルです。


私は、何かを選んだり、決めたりする時の自分の在り方が
A寄りの反応になっているか、
B寄りの反応になっているか、を
自分の使い方の1つのバロメーターにしています。


Aの時は、「○○という手段」しか目に入っていない状態。
○○以外の手段も、もしかしたらあるのかもしれないけど、
他の可能性に目が向けられない状態です。

これが加速すると、単に1つの「手段」であったはずのAが
「目的」そのものになってしまったりします。
「○○を使えないと~~になれない!!」と
自分を縛り、追いつめてしまうこともあります。

虫眼鏡



Bは、○○以外の所にも目を向けられるような状態です。
仮に○○を選んだとしても、
状況に応じて、柔軟に使い方を変更したり、
一旦ストップしたり、必要ならば
別な手段に乗り換えたり出来るような、
自分に「選択の余地」がある状態、
自分にスペースを与えられている状態です。

Bの時は、○○は目的を叶えるための
単なる1手段に過ぎず、
手段と自分との間に、いい感じの「距離」があります。
手段に自分が使われてしまうのではなく、
あくまでハンドルは自分が握っている状態ですね。

オリオン座




実際はABで、こんなにパッキリ分けられるわけではなく、
両者の間がグラデーションになっていて、
そのどこかに自分はいる、ということになるのでしょうが、
それでも自分を観察する時の
1つの目安にはなります。

なぜこういう目安を設けているかというと、
私自身が、すごく真面目で心配性だからです。
もともとA寄りの反応をすることが多いんですよね。
上に書いたAの状態は、お恥ずかしいことに
「自分あるある」なんです。


そして、自分の在り方を狭めている時、
手段が目的になっていることに気づかない時、というのは、
身体のスペースも狭くなってしまっています。
そして情報の入って来方、思考の柔軟さも
狭く、硬直したものになっています。

やっぱり、心と身体はひとつのもので、
私たちは「丸ごとの自分」として反応しているんですよね。


「○○」には、色んなものが当てはまると思います。
通信手段、移動手段、
スケジュール、誰と組むか、
どの病院へ行くか、どの体操をするか、
何を食べるか、いつ食べるか・・
↑ ↑
これらは、手段なんですよね。

手段って、やることそのものよりも、
何のために用いるのか?
どのように用いるのか?

を、プロセスとして見渡せることが
最も大事なことなんじゃないかな?
と思います。

単なる手段に取り組んでるはずの自分が、
もし追いつめられているような気がしたら、
「自分は今、A寄りかな?B寄りかな?」
って考えてみるといいかもしれないですね。

やる行動は同じでも、
キャッチするものは、
オリオン座と、手のひらのホクロぐらい
違うかもしれないです!