2020年4月27日
前回のブログ「年齢と学び(その1)」のつづきです。
多分、もう最終学年になっていた時だったと思います。
「もしも20代の自分と、アラフィフの自分が、
よーいドンでトレーニングをスタートしたとしたらどうなるだろう?」。
20代の自分を思い出しつつ、
”2人”のプロセスを想像してみました。
スタート時点では、やはり20代の私の方が
進みは早いだろうな、と思いました。
でも・・もしかしたら「彼女」は、途中でよそ見をし始めるのではないか?
あるいは、そもそもアレクサンダーテクニークのレッスンは受けたとしても
トレーニングを受けるまでには至らなかったのではないかな?
と思いました。
彼女と私の決定的な違いは、「切実感」でした。
今から約10年前の私は、まさに崖っぷちでした。
(30代後半でした。)
心身ともにゴチャゴチャで
「これは、根本的な何かを変えないと、
自分はにっちもさっちも行かなくなるんじゃないか?」
と思っていました。
色々調べたリ試したりしている内に、最終的にたどり着いたのが
「自分をどう使うか」の技術である
アレクサンダーテクニークというワークでした。
「溺れる者はワラをもつかもむ」のことわざ通り、
溺れながら、なんとかつかんだ細~い「ワラ」を見てみると
「ア・レ・ク・サ・ン・ダー・テ・ク・ニーク」と書いてあり、
必死でそのワラをたぐり寄せた、
それが10年前の私でした。
(もちろん比喩です。)
・ ・ ・
それに対して、20代の私は、それ程困っていなかった、と思います。
それなりに不便を感じてはいましたが
溺れる程ではありませんでした。
仮に、何かの折にアレクサンダーテクニークと出会えていたとしても、
いっときは夢中になるかもしれないけれど、
もっと別の面白いことを見つけたら、そちらへ行ってしまったかもしれない、そう思いました。
結局、私の中から「必然の動機」が生じてくるまでには、
もっとたくさんの時間が必要だったのです。
「その人ごとのベストな時間というものがある、
だからこれはもう仕方ないのだ。」
というのが、私の結論でした。
それからは、出来ないことや分からないことがあったとしても、
そのことと年齢が結びつくことは、殆どなくなりました。
「自分にとってのベストな時間を生きる」ことの方に、
リアリティを感じるようになったからです。
ただ、やっぱり、たくさんの時間と可能性がある
若い人達はうらやましいな~と思っちゃいますね。
そして、その思いにフタをしなくてもいい、
とも思っています。