2020年12月5日
「感覚」というものについて考えた時に思い浮かぶ作品が、
ドイツ映画の『ビヨンド・サイレンス』です。(1996年 カロリーヌ・リンク監督)

お話は、両親が聴覚障害者で、本人は健聴者である少女、ララの成長物語です。
ララは子供の時から、手話で話す両親の通訳をしています。
彼女が両親と社会の「窓口」になっているのです。
とても仲のよい家族なのですが、
ララが音楽の道を志すようになってから、父親とララの間に確執が生まれます。
* *
ある雪の日に、
窓辺を見て、父親がララに呼びかけます。
「雪が降る時ってどんな音がするんだい? きっと素晴らしい音なんだろうね・・」
父の言動にずっとにいら立っていたララは、
「雪に音なんてあるわけないじゃない! それどころか、雪は全部の音を吸い込んでしまうのよ!」
という冷たい言葉を放ってしまい、父を傷つけます。
正確なセリフではないとは思いますが、
私が少なからず衝撃を受けたシーンでした。
ララの言葉にではなく、
父親の「雪は素晴らしい音をしているに違いない」
という捉え方にです。
*
この映画は自然の風景が素晴らしく、
雪のシーンは本当にきれいなんです。
確かに、あんなにきれいな雪なんだから、
ものすごく美しい音がしたとしても、不思議ではありません。
でも私たち、耳が聞こえる人には、
お父さんが言うような美しい音は聞こえません。
なぜなら「耳が聞こえる」からです。
耳という「感覚の器」を持っている私たちには、
その器の形に沿ったものしか、入れられません。
「耳が聞くようにしか、聞くことが出来ない」のです。
五感が機能していることは、生きる上で欠かせないことだし便利だけれども、
実は不自由な面もあるのかもしれないなと、
この映画を見た時、私は思ったのでした。
何か刺激がやって来た時、
感覚器は役割分担ごとに、その刺激を振り分けて知覚します。
赤ちゃんの頃は、その分担が曖昧だけれども、
成長するにつれて、きちんと振り分けられていくようです。
それぞれの器に「分けられていく」ことは、
効率がよくて、より安全、便利になっていくことでしょうけれど、
同時に豊かさが失われていくことでもあるのかもしれないなと
私は思っています。
そんなわけで、
私は時々、想像の中で、この器を交換する遊びをします。
目で聴くことは、出来るかな?
耳で観る、みたいなことは出来るかな?
この色、どんな味がしそうかな?
そして、きれいな雪景色を見た時は、
「一体どんな音がするんだろう?」と
聴こえないはずの音を想像してみたりするのです。