2023年3月12日
ごめんなさい!!
前編を書いてから1ヶ月以上も経ってしまいました。
アレクサンダーテクニークの教師養成トレーニングを受けていた時に、先生のご提案で行った「あるワーク」がきっかけで、
自分が今まで「理解の捏造」をしていたことに気づいてしまった! という怪談が前回のお話です。
お待たせしました。
後編は、あの時何が起きていたか?の解説です。
理解を先回ってしまっていた私
学びがある程度の期間を経ると、それなりに「要求されていること」がだんだん分かってくるものです。
「あ、きっと先生はこういうことを言いたいんだろうな」
とか、
「とっかかりがこうなってるってことは、ゴールはこうだよな」
とか。
たとえ情報の「断片」しか見えていなかったとしても、
「既存の答え」と結びつけてしまえば、
「自分はもう分かった」と言うことが出来てしまいます。
これはもう典型的な「エンド・ゲイナー」ですね(笑)
「動きの理解」について
それまで私がずっとやっていたことはこれだったのです。
(エンドゲイナー = 建設的なプロセスを端折って、目的に突進しちゃう人のこと。アレクサンダーさんによる造語です。)
もともと「動き」を把握するのが苦手で、
とても苦労していて、
やっとぼんやりとでも「分かってきた」と思っていたところだったので
ものすごーーく落胆しました。
落胆クマガイ
がーーん。
今まで地道に学びを積み上げてきたと思ってたのになぁ。
なんだよ、捏造の積み上げかよ!
この時間は空白だったのか?
などなど(笑)。
自分の理解は、
まるで計算ドリルの「解答」を先回って見ちゃうみたいな程度の理解だったのですよ、ホントがっかりです。
その後も自問自答は続きます。
諭すクマガイ
「じゃあ、お前は、今気づいたことを無かったことにしたいのかい?
捏造に気づかなかった方がましなのかい?」
「い-え。気づいた方がましです~(涙)」
そこから私には、動きに限らず「分からないことへの持久力」がついて行った気がします。「理解を保留する力」とでもいうのかな?
とりあえず、手がかりになりそうな情報やアイディアはどこかの「棚」に置いておいて、それらが勝手につながり合ったり、発酵したりするまで寝かせておくのです。(情報の収集はたくさんしますよ)
「こういうことかも」という要素も、その棚に「仮説」として入れて置きます。「今はこう思ってる」ぐらいの位置づけですね。
「仮説」が後に「総とっかえ」ということもあり得ますが、それも学びのプロセスなんですよね。
「ステイト(状態)を変えないワーク」の意味
さて、前編でご紹介したワークを、アレクサンダーテクニークの文脈で解説してみますと・・
①聴く、動く、解釈する、理解するなどの「目的」に突っ走ろうとしている時に、
全体のコーディネーションが変わってしまうという「私の心身の反応」(恐らく固まってしまっていた)が、
↓↓
②「ステイト(状態)を変えないワーク」を間に挟んだことによって「インヒビション(抑制)」された、
ということになるのだと思います。
その結果、私の場合、
③「捏造」が出来にくい状態になった。(エンドゲインが抑制された)
↓↓
④それを「今まで分かってたものが、分からなくなってしまった!」と感じた、解釈した。
ということになったのだと思います。
本人的にはガッカリ案件ですが、俯瞰してみると「学びのプロセス」に戻れていたわけなので、実は結果オーライなんですよね。
(インヒビション=抑制。
習慣による心身の不必要な反応が抑制されている状態のこと。)
現在は、あの時学校で頂いた「ステイトを変えない」というタネが
自分なりに育っていってるんじゃないかなぁと思っています。
おかげさまで「分かりたい!」から「こういうことかな?」へ「移行する時」に多少~は粘れるようになった気がします。
「分かりたいことが分からない」ってしんどいですよね?
でも私はあの時の自分みたいにガッカリするぐらいだったら、「無知」である自分を選びたいなと思っています。
自分で自分をだまし続けることの方がしんどいからです。
もちろん「理解の捏造」は、今もちょいちょいやっています。
でも、あの時の古傷のおかげで
「ま、自分ってそんなもんですよね~、知ってるもーん」と「ガッカリの大やけど」まではいかずに済んでいる気がするんですよね。
いやぁ、それにしても、あの時は本当にキツかったぁ~~(笑)
前回のお話はこちら!